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「本麒麟」ヒットに至るまでの“12連敗” キリン・マスターブリュワー田山智広が語る「良い負け方」の定義

キリン・マスターブリュワー田山智広氏 (C)oricon ME inc.の画像

キリン・マスターブリュワー田山智広氏 (C)oricon ME inc.

 ビール市場における新ジャンル(第三のビール)は、この10年で着実にユーザーに浸透。各社しのぎを削るなか、「キリンのどごし(生)」(05年)、「サントリー金麦」(07年)などのヒットにより、「ビールの代替品」の認識を払拭していった。ORICON NEWSでは、キリンビール唯一の“味の番人”、マスターブリュワー・田山智広氏に独占取材を敢行。「のどごし(生)」のヒットから、2018年の「本麒麟」登場までの間、実に12連敗を喫した“負けの歴史”をどのように乗り越えたのか? “常勝”はどの企業にもあり得ない。だからこそ「本麒麟」をヒットに至らしめた、“明日に繋がる負け方”とは? 10月より施行される酒税改正後の新ジャンルの動向も田山氏の真摯な発言から浮き彫りとなった。

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■空前の“ドライ戦争”、その前年に新卒入社 「ビールは理屈だけじゃない!」を叩き込まれた工場勤務

 「マスターブリュワー」は、キリンビールにおいて田山氏のみ名乗ることを許された特別な役職だ。味わいの最終決定権を有する責任者であり、“つくり手の顔が見える”という価値を対外的にも示す、シンボリックな役職といえる。そんな田山氏の軌跡は1987年にまで遡る。

――田山さんの軌跡を改めて振り返ると、1987年の入社以来、ビール市場を揺るがす“変革期”に、常にその身を置いていたと思うんです。
【田山智広】 そんな昔話をするとは思わなかった(笑)。でも、言われてみれば、確かにそうかも知れないですね。87年はちょうどアサヒさんの『スーパードライ』が出た年でした。

――『スーパードライ』の大ヒットに伴う、俗に言う“ドライ戦争”(※各社がこぞって“ドライ”の名称を冠した商品を発売)前年での入社でした。さらに翌88年は、御社を象徴する「聖獣麒麟」が描かれたラベルの誕生から100周年でもあったと記憶します。まさに渦中です。
【田山智広】 とはいえ、当時の私はただの新卒1年目でしたので、当然ながら上層部でどのような議論が交わされているかなど知る由もありません。「ドライ戦争」という風にメディアが名付けて、煽られている印象はありましたし、それまで割と順風満帆だったキリンの先行きに少しばかり不安を感じたのは事実です(笑)。ただ私の場合、大学院でバイオテクノロジーをかじって入社したので、純粋な技術者として活躍したいなと思っていました。

――当初は売上云々とは別軸で、あくまでも研究者としての欲求を満たす環境を望んでいたんですね。
【田山智広】 ビールに関しても、もちろん好きでしたけど、そんなに“奥深いもの”として捉えていなかったというのは、正直あります。実は私が入社した87年は、ちょうど社内的にも体系的な技術研修を行う研修センターというのができた年でした。さぁ仕事をするぞ!と思ってた矢先に、半年間そのセンターで研修の日々(笑)。でも、その過程の中で、ビールを作ることの奥深さを知ることになって。これは結構やりがいあるぞ…と。

――研修期間でビールに興味を持ち、最初に赴任したのが滋賀工場だったそうですね?
【田山智広】 そうです。工場という環境は、ある意味で自分自身の“今”を形成したことは間違いない。それまで同じ年代と過ごしてきた若造が、親父ぐらいの年齢の方と接することになる。男女含めて様々な人たちと一つの目的のもと、仕事をするという環境に置かれたわけです。まずそこに適応することに精一杯。それこそ「ドライ戦争」に勝つにはなどと、冷静かつ戦略的に考える余裕などは無かったです(笑)。

――歴戦を潜り抜けてきた職人肌の工場員と、どう関わっていくのか? その経験が現在の田山さんに繋がる大きな糧となった?
【田山智広】 ガツンとやられましたけどね(笑)。でも今思えば、最初に工場勤務になったことは本当にありがたかった。本流のビール造り以外に搾りカスをどのように処理するのか、排水処理をどのように行うのかなど、全体像を把握できたので。その中で、ぽっと出の若造が、性別や経験値、考え方の異なる年配の方々に対して、自分がやりたいこと、今やらなくてはいけないことをどのように伝えるべきか? “本流”以外をしっかりと理解することで、現場の方々の理解も徐々に得られていったと思います。

――入社1年目でさまざまな側面を垣間見られたことは、田山さんにとって財産になったんですね。
【田山智広】 そうです。そこには“理屈”が介入できないこともたくさんありました。それを実感できたことが良かった。実は新人研修の最後に、自由にビール作って良いというお達しが出た。僕らもそれを凄く楽しみにしていた。同年代でレシピを組んで、自分たちなりの「最高のビールを!」と息巻いていたのですが、結果は散々…。ちょうど同じタイミングで、全国の工場から選りすぐりの職人たちも集まり、我々と同じように座学を受けていたんですけど、そのおじさんたちが作ったビールがどれも凄く美味しかったんです。ああ、俺たちはやっぱり頭でっかちだったと(笑)。

――理屈じゃない力に打ちひしがれた。
【田山智広】 「ビールは理屈だけじゃない」ということ、そしてビールの奥深さを改めて痛感しましたね。

 “何者でもなかった自分”を形成してくれた新人時代の工場勤務。田山氏が赴任した滋賀工場は、別名“調整工場”と呼ばれていた。横浜や仙台工場など、エリアをカバーする製造拠点ではなく、需給調整のための工場だったからだ。その立ち位置だからこそ「普通の仕事をしてたら生き残れない」というマインドに繋がっていたと回顧する田山氏。常に危機意識を持った“工場マインド”から、組織論と人心掌握術、そしてマネジメントを学んだ。その後、田山氏はドイツ留学を経て、2001年よりマーケティング部の商品開発研究所に所属。そこでもまた、“渦中”に身を委ねることとなる。

――2001年からマーケティング部の商品開発研究所に所属されます。その、2年後の2003年にはビール市場における新たな転換期となる「新ジャンル」(第三のビール)が産声を上げることとなります。またしても渦中ですね(笑)。
【田山智広】 まぁ、そうですね(笑)。最初は「のどごし(生)」のプロトタイプと言いますか。それはスタート時から関与していましたが、正直、箸にも棒にも掛からなかった。麦を使わずに何使うか? まさにゼロベースからのスタートでした。

――さまざまな試行錯誤あったんでしょうね。どこが先に新たな機軸を作るのか? 競合も踏まえて各社躍起になっていたことは想像に難くない。
【田山智広】 そうですね。我々技術者としては、スタンダードのビールカテゴリーにおける美味しいビール作りと並行して、(酒税の)安いカテゴリーで美味しいと思えるようなビールを作るにはどうしたらいいか?ということを常に研鑽してきました。

――その成果として、2005年に「キリンのどごし(生)」(麦や麦芽を一切使わず、「大豆たんぱく」を味の決め手に使用)が発売され大ヒット。文字通り「新ジャンル」の新たな基軸を作った。
【田山智広】 「のどごし(生)」が出た段階で、かなりの手応えを持っていました。ただ起死回生の商品だったので、売上が伸びている段階では“その先”ということは、考えていなかったんです。でも、サントリーさんから「金麦」が発売されて、今度はリキュールと言う隙間のカテゴリーを使用してきて、これはヤバいと。

――“勝ち確”だと思っていたら、直ぐに新たな解釈によって追従する商品が台頭する…つくづく落ち着けない業界だと実感しますね(笑)。
【田山智広】 実は「金麦」が発売された前後の2006年から2009年まで、ビール部門から離れて健康食品部門に異動していたんです。09年から再びビールに復帰しましたので、そこから…。

――2018年に現在の「新ジャンル」におけるフラッグシップである「本麒麟」が発売されるまでに、実に12にも及ぶ商品が開発されたそうですね。つまり、「本麒麟」で覇権を再び奪うまでに計12回の負けを経験された。決して一朝一夕で勝てるほど甘い世界ではない中で、“悪い負け方”と “良い負け方”をどう識別していったのか? 「本麒麟」に至るまでに、どのように“負け”を昇華していったのでしょうか?
【田山智広】 うーん。正直言いますと、“負けっぱなし”では、企業としてみると何の意味もないという判断になってしまうと思うんです。次に活かして初めて、その負けに意味が出る。ただ、商売上は勝ち負けが常に問われますが、技術で言うと勝ち負けってないんです。例えば、うちはスパークリングホップを展開しましたが、市場から消えました。でも、ここでのホップの使い方は、その先のクラフトビールも含めて、次に活かされている。すごく学習できるわけですよね。それってやっぱりチャレンジしなかったら、絶対に学習もできないので。常にチャレンジの積み重ねだし、技術の上では絶対に負けはない。常に何か新しい知見がみられて、それが糧になっています。

――勝敗を問う土壌をまず理解するということですね
【田山智広】 そうですね。ただし、教訓が次に活かされてないとすれば、やはりそれは「良い負け方」とは言えない。なぜ失敗したのかを徹底的にレビューしなければ、次に活かされない。

――とはいえ、商品開発を矢継ぎ早に行わなければならない宿命も背負っていると思います。開発部としてはもう少し吟味する時間が欲しいけど、営業部からは「もっと早く」というような声も…。
【田山智広】 そうですね(笑)。ウチは「新しさの追求」という部分をすごく大事にしてきたんです。つまり、今までにない、一見して新しいと思えるような商品を創造しようという。哲学と言ったら言い過ぎですが、一貫してのポリシー。もちろん、ベースにはお客様の価値になるものを出すというのが前提として。ただ、新規性を大事にするが故にどうしても、既視感があるような“ど真ん中”というよりは、ひねりを入れた商品を開発しがちと言いますか。

――なまじ技術力があるだけに、まだ見ぬ世界へ誘おうとする傾向が(笑)。
【田山智広】 その背景には、「淡麗(生)」(1998年 ※現在の名称は「淡麗極上(生)」)と「キリンのどごし(生)」の成功事例があったんです。「淡麗(生)」に関しては、本当にあのヒットがなかったら、迫っていたアサヒさんに一気に逆転されていたでしょうね。ジリ貧に陥るかもしれないというぐらい、危機的な状況を持ち直させた新商品という神風でした。この2つのヒットが、ある意味「新しい商品の追求」に拍車を掛けたと言えるし、やはり成功事例がその先の失敗を生むという流れを作ったとも言えます。
(後編に続く)

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