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「消えた一発屋と10年言われた」テツandトモ、“なんでだろう♪”25年続ける背景に立川談志さんの存在

今年でデビュー25年目を迎えたテツandトモ(C)oricon ME inc.の画像

今年でデビュー25年目を迎えたテツandトモ(C)oricon ME inc.

 1998年にコンビ結成し、たちまち“なんでだろう♪”のネタでブレイクしたテツandトモ。『ボキャブラ天国』『エンタの神様』『めちゃイケ』などに次々出演し、03年には紅白出場。大ブームを生んだが、翌年には「消えた芸人」「一発屋」と言われた。『M-1グランプリ』決勝進出時(02年)は内外から酷評を受け、“なんでだろう♪”以外のネタを生もうと四苦八苦した時期もあったというが、今年でデビュー25年目、ともに52歳を迎える今も、彼らは“なんでだろう♪”で人々を楽しませている。その背景には、いつも立川談志さんの存在があった。

【貴重写真】イケメン…!? 23年前、大学の同級生だったテツandトモ

■役者&歌手志望だった2人、友人結婚式の余興をきっかけに27歳で芸人コンビ結成

――改めて、お2人のコンビ結成のきっかけからお伺いできますか。

【トモ】テツとの出会いは18歳、大学の同級生です。お笑いをやるつもりはなく、そのまま卒業しました。27歳の時に、友人の結婚披露宴の余興で2人で歌を歌ったんです。その時、たまたま会場にいらしてた今のプロダクションの方に声をかけて頂いたのがきっかけです。

――いきなりお笑いコンビを組むことに、迷いはなかったですか。

【トモ】僕は舞台でお芝居をやっていて、テツは元々歌手志望でした。余興での歌を聴いて声をかけてくださったので「歌手になれる」と思い、特にテツは喜んで事務所へ挨拶に行ったんです。そうしたら、「お笑いをやらないか」と言われて…。断りました。僕はお笑いの世界を少し経験していたのですが「才能がない」と思い離れたし、テツと2人ではそもそもやったこともなかったし。

【テツ】僕も歌の方だったら頑張ってみようかな、って思えたんですけど、全然考えもしなかったお話だったので。それでも、2ヵ月ぐらい熱心に誘ってくださって。売れたらCDも出せるって言われて、「ダメだったらすぐ辞めれば良いか」くらいの気持ちで、じゃあちょっとだけ…と思って始めたんですよね。

――それから24年。今も健在の『なんでだろう』のネタは、どのようにして生まれたのでしょうか。

【トモ】最初は、お笑いライブに出演するためのオーディションに行って、漫才やコントをやったのですが、全く受かりませんでした。それで、どうせやるなら音楽を取り入れた歌ネタをやりたいとテツに言われて。僕がギターを弾き、テツが歌うスタイルが生まれました。最初はテツが歌ってたんですよ。コンビ結成から『なんでだろう』のネタができるまではかなり早く、2ヵ月くらいでしたね。

【テツ】当時1ヵ月で15ヵ所くらいオーディションに行ってました。それまで全然受からなかったのに、“なんでだろう”のネタができてから、急に全部受かったんです。ライブからテレビが決まって、『ボキャブラ天国』『爆笑オンエアバトル』『めちゃイケ』『M-1』と、繋がっていきました。

■「お前ら、もういいよ」M-1決勝で会場が凍り付いた、審査員・立川談志さんの伝説の一言

――すごく早咲きですよね。

【トモ】2002年には第2回『M-1グランプリ』に出させていただいて、立川談志師匠が審査員でいらしてました。師匠が決勝の審査コメントで、僕たちに「お前らはここに出てくるやつじゃないよ。もういいよ」と仰られて。会場が凍りついたように感じました。

【テツ】頭が真っ白になりましたね。お客さんの空気も変わって…。

【トモ】「褒めてるんだぜ」って談志師匠は仰ってましたけど、得点は70点だし、僕らはもう怒られモードで、全然ダメなんだと思ったんです。ところがその後すぐ、師匠の寄席のゲストに呼んでくださったんです。

【テツ】僕らの10周年ライブにノーギャラで出演してくださり、師匠の高座で「昆布が海の中で〜」って僕たちのネタを歌ってくださったりもしました。感謝しています。

――お2人にとって、『M-1グランプリ』はどういうご経験になってますか?

【テツ】ゴールデンでネタ一本まるまるやったのは、『M-1』が初めてだったんです。全国の皆さんに知ってもらうすごく良いきっかけになりました。歴史ある番組じゃないですか。その第2回目に出られたことはとても幸せですし、当時も番組に出て“なんでだろう”ができることに「こんな嬉しいことはないんだ」っていう思いでやってました。

【トモ】Twitterなどで「マジカルラブリーがダメならテツトモはどうなるんだ?」とのコメントを目にします。あれから20年も経っているのに、当時の事を覚えてくださってる方がいるのは嬉しいです。歴史を調べると、漫才のスタイルには、音曲漫才もあるんです。しかし今は、しゃべくり漫才やコント漫才が主流ですから、僕たちのスタイルは漫才とは言いがたいのかもしれません。ルールとして、「楽器NG」と決めていただければ分かりやすいんですけどね。

■ブレイク期は忙しすぎて記憶なし、テツは人間不信に… 翌年には『消えた芸人』特集に

――その後も大忙しだったと思います。

【テツ】2003年、『こち亀』のエンディングテーマに“なんでだろう♪”を使っていただいたのが大きかったですね。お子さんが見てくださって、みんな踊ってくれて、おじいちゃんおばあちゃんにも広がって、全世代の人に認知していただくきっかけになりました。

――念願のCDデビューも叶って、紅白出場も。

【トモ】ある日事務所に行ったら、仕事の依頼のFAXが山積みになってました。社長が電話をしてたのですが、2つの受話器を両耳にあてて、同時にやりとりをしてるんです。漫画でしか見たことないやつ(笑)。ありがたいことに、朝から晩までびっしりとお仕事を頂き、「あれ?何時にご飯食べられるの?」という時もありました。深夜に番組の打合せも入り、睡眠時間が2時間ほどの日が続くと、意識が朦朧として。だからなのか、あの時のことをあまり覚えてないんですよね。

【テツ】覚えてない!でも僕的には、どっちかっていうと嫌な感じっていうか。なんかもう、人間不信みたいになっちゃって。当時今の奥さんと付き合っていて、同棲していた家まで週刊誌に追いかけられたり、街中で「調子乗ってんじゃねぇよボケ」と言われたり、ヤンキーのお兄ちゃんに「なんでだろうやれよ、オラ」と絡まれたり…(笑)。

【トモ】かと思えば、2004年以降は週刊誌に『消えた一発屋芸人』との見出しが。世間の方々に「まだ居たんだ」「なんでだろうしかない」などと言われるようになったんです。「なんでだろうしかやってねーから消えたんだよ。事務所も悪い」と言ってくる記者もいたんですよ。

――辛辣ですね…。“なんでだろう♪”をやり続けることに迷いはありましたか?

【トモ】迷いはありませんでした。僕たちの宝物ですから。でも談志師匠が、「次、もう一発当てたら一生食える」と言ってくださいました。過去にも『オンバト』などで、“なんでだろう”以外のネタをたくさん作ったんです。ところが、テレビに呼んでいただくと「“なんでだろう”をやってください」と言われるわけです。次のフレーズを当てるのは、並大抵のことではありませんでした。

■テツ、本当は“オタク気質”で「ひな壇トークは苦手」 年間200本のステージで光る芸人魂

――それに対する焦りや不安はありましたか?

【テツ】ありがたいことに、仕事がなくならなかったんです。テレビ出演は減っても、お祭りやイベントなど、年間200本ほどの営業が入りました。今まで作ったネタの数々を営業で披露できたんですよね。1時間ステージの依頼があった時に、他の芸人さんから「1時間何やるの?」と聞かれますが、長時間のライブでも不安はそんなになかったんです。もちろん、ブームは去って行かない方が良いと思っていましたが、体力的にも精神的にも、あの生活をずっと続けるというのは不可能だったと思いますね。

【トモ】他の芸人さんたちには失礼かもしれませんが、芸人としてスタートしたときは「冠番組を持って、天下をとる!」という感じではなかったんです。最初の目標は、勿論ネタをやり、芸人としてご飯を食べられるようになること。もともと僕は役者志望、テツは歌手志望。芸人とは仕事の内容が違うのですが、舞台で表現するという意味では同じです。今はお客さんの前でネタをやり、最後に普通に曲を歌わせてもらったり。やりたいことをやれてるよね(笑)。

【テツ】ありがたいですね。子どもの頃、のど自慢番組などに出演させてもらった時、もちろん歌も好きだったんですけど、自分が歌を歌うことで、家族がすごく喜んでくれたんです。祖父母もいつも応援してくれて、それがとても嬉しくて。喜んでくれる人がいるんだったら、それを続けたい。今もこうして“なんでだろう”ができることを幸せに感じています。やはり生でお客さんに笑っていただけると、すごく楽しいんですよね。

――立つステージが変わっただけで、根本はずっと変わらないんですね。

【トモ】テッちゃんは昔、テレビのひな壇とか苦手意識があったよね?

【テツ】そうだね。プレッシャーとかね。だからブレイクして人間不信に陥った時も、テツandトモはいつも元気で明るいイメージがあるので、素の部分を見せたくなかったんです。本当はオタク気質で、静かな人間なんですよ(笑)。だから当時、本当に人と会うのが嫌でした。飲み会も行ってないし、すぐに家に帰ってました。

【トモ】特に若い時は失敗を恐れ、芸人なんだから毎回面白いことを言わなければいけない、という考えになっていたと思います。番組収録後に「あー、何も喋れなかった」と2人で反省して。MCに振られてもうまく返せない。自分で自分にプレッシャーをかけ、「どうしよう、このままでは仕事がなくなる…」みたいな感じでした。今はお互いに50歳を過ぎて失うものもなくなったので、逆に自由に出来てるような気がしてます。

■立川談志さんがいたからこそ続けてこられた25年、「一発屋」から「偉大なるマンネリ」へ…

――様々な苦悩があっても、ここまで続けてこられたのはどうしてだったのでしょうか。

【トモ】結局僕たちは「消えた一発屋芸人」と10年くらい言われ続けました。ある時、立川談志師匠が飲みに連れて行ってくださったんです。師匠は、僕たちが世間からそう言われてることを知っていたのかもしれません。飲みながら「テツandトモ、私が良いって言ってるんだからそれで良いじゃないですか。あと何が欲しいんですか?」って言ってくださったんです。本当に嬉しかったです。ものすごくパワーを頂いて、師匠の優しさが心に響きました。

【テツ】ある時には、「もし解散したくなったら、私のところに来なさい。全力で阻止します」と言ってくださいました。今も原動力になっているのは、談志師匠がくださった温かい言葉の数々です。あの師匠に良いと思ってもらえたのだから、そんな簡単には辞められない。“なんでだろう”を続けていかないといけないとすごく思います。

――『M-1』の出来事があってからの…素敵なお話ですね。かつては「なんでだろうしかない」と言われたそうですが、最近では「20年やり続けてただただ尊敬」「しばらく見ない間にテツは動きのキレが良くなって トモは歌が上手くなった」「営業でやり倒してるから歌唱力上達してる」といった声が多く寄せられています。

【テツ】昔、僕達が子どもの頃の人気番組『カックラキン大放送!!』で演出・製作総指揮をされていた白井壮也さんに「偉大なるマンネリ」という言葉を頂いたことがあって。

【トモ】コンビを組んで、“なんでだろう”をやり始めたばかりの時に頂いたお言葉です。白井さんは、わかってたんでしょうね〜。マンネリはネガティブな言葉にもとれますが、やり続けることがどれだけ難しいことか。そしてそれを続けられたら、そこに成功が待ってるかもしれないことを。

【テツ】その白井さんに、「誰かを喜ばせたい気持ちがあるなら、それを大事にしたほうが良いよ」って言葉を頂いたのを覚えてます。僕は、小さい頃から大道芸が好きなんです。今でも路上ライブは足を止めてみたりしますし、とても楽しいんですよね。皆さんがその方を知ってるとか知らないとか関係なく、すごく楽しくて幸せな時間を一緒に過ごせてるなーって思います。そんなあったかい気持ちが、僕たちの笑いのベースになれば良いなと。テツandトモにしか出来ないお笑い、皆さんがほっとするような時間を共有する。舞台の大小関わらず、そういう笑いを届けていきたいです。

【トモ】新型コロナウイルス感染症の影響でお祭りやイベントは減りましたが、最近ではオンラインでのイベントが増えています。生のライブが出来ないことを逆手にとって、オンラインだからこそ楽しめる、僕たちらしい楽しいネタが出来ればと試行錯誤しています。

――何歳まで続けたいなど、目標はありますか。

【トモ】当初は50、60歳くらいまで続けられたらと思ってました。今は、更に上を目指してます!コンビ結成50周年だと77歳!

【テツ】あー!「77」で!「なななな、なんでだろう」だ!笑

【トモ】その年齢でジャージを着て動いてたら、面白いだろうな〜。

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