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間寛平、今でも「あまえんぼう」 東京進出を支えた欽ちゃん、さんまとの秘話

『間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー いくつになってもあまえんぼう』を開催する間寛平 (C)ORICON NewS inc.の画像

『間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー いくつになってもあまえんぼう』を開催する間寛平 (C)ORICON NewS inc.

 ギャガーとしての活躍、吉本新喜劇座長、マラソン、忌野清志郎さんとの交流…。間寛平(71)は“笑い”を軸に、これまで多岐にわたって活躍してきた。そんな寛平が、6日より『間寛平 芸能生活50周年+1記念ツアー いくつになってもあまえんぼう』を開催する。自身が座長となって、内場勝則、辻本茂雄、未知やすえ、ジミー大西らとともに繰り広げる新喜劇のほか、中川家、千鳥といった名実ともに文句なしの芸人たちがそろったネタパートと、豪華なラインナップとなっている。「ここまでのものは、なかなかないと思いますよ」と感謝を伝える寛平だが、自身がこれまでに築き上げたきた“人徳”ゆえの顔ぶれだ。

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 1970年に吉本新喜劇に入団したのは、友人の紹介がきっかけだった。「中学の同級生がディスコの照明係をやっていて、そこの支配人が芸能関係の人とも交流があったんです。それで話が進んで、まずはストリップ劇場で修行をしようという話になったんです。1年くらい修行して、そろそろ次の段階にいきたいなっていう時に、支配人とつないでくれた同級生が、今度は喫茶店のバイトをやっていて。そこのママが後にアメリカ村を作る日限萬里子さんなんですが、日限さんとの縁があって、吉本に入ることになったんです」。

 半年後、木村進さんが新喜劇に入団し、ともに若手として引っ張っていく存在となっていく。「アメマ」「かいーの」といった代表的なギャグを次々と生み出している寛平だが、自身の哲学がある。「ギャグっていうのは考えてできるものじゃないんですよ。考えて作っているのは、FUJIWARAの原西孝幸とか、サバンナの八木真澄とかですわ。僕は舞台でできたギャグばっかりですから。舞台の流れでやるから、実は全部、意味があるんですよ。アメママンも意味があるんです。例えば、22歳とか23歳くらいの時は、新喜劇で僕が一番若いから、子ども役が多かったんですよ。そんな時に、舞台でギャグをどんどんやっていました。それをおもしろがった子どもが大人たちを連れてくれて、お客さんが入るようになったんですよ。僕には芸も何もなくて、ギャグだけです」。

 74年には新喜劇座長に就任し、翌75年には歌手デビュー曲「ひらけ!チューリップ」が100万枚超の大ヒット。順風満帆かに見えたが、複数の連帯保証人、人気キャラクター・アメママンのアメマバッジを10万個製作するも、売れ残ってしまい、気づけば借金地獄に。「借金だらけで、関西にはいられなくなって、39歳で東京に出てきました。ツテは何もないです。たけしさんに飲ませてもらったり、妻が小学校の時に欽ちゃん(萩本欽一)の追っかけをやっていて、かわいがってもらっていたっていうことで、2人で欽ちゃんのところに行こうっていってみたり、いろいろあったんです。それで、欽ちゃんが『ご祝儀で』っていうことで、番組に出させてもらって、なんとか生活費をまかなっていたという時代もありました」。

 そんな中、マネージャーの営業が実り『笑っていいとも!』に5分だけ出演できるチャンスが訪れた。そこで披露したのは、大阪で髪の毛にいろんなものをくくりつけて歩いているおじさんを見たことから着想を得た「引きずり女」だった。紅白歌合戦にも引きずり女で出演するほどとなったが、紅白の舞台では「客がめっちゃ引いていた」と笑いながら振り返る。「その次の日、さんまちゃんが『爆笑ヒットパレード』で『めちゃくちゃ引かれてましたな』って、どんどんイジって笑い転げてくれたんです。そうしたら、お客さんも“引くこと”を笑っていいんだっていうので、笑いだしてくれた。そこから、僕はウケるより引かれることがうれしくなってきて(笑)。村上ショージの引き芸も、それくらいのタイミングで出てきたんですね。引いてもドンと構えているから、今ではショージが若手に『こういうのを見習ったらアカンぞ』と言うてます、そこまでがセットやから(笑)」。

 節目に大きな出会いをしている寛平は、これまでの歩みを「人の力が40~50、運も40、僕の力は10」と謙そんするが、インタビューでは、年齢の離れた記者に対しても「この前の会見も来てくれたん? うれしいなー。今回のライブも来て!」とやさしく話しかけてくれるなど、人との出会いを引きつける“人徳”があると何度も感じた。そんな寛平が今回の特別なライブに合わせて作った楽曲が「8、9、10の歌~BEAT THE CORONA(コロナに負けるな)」だ。「コロナに負けたらアカンっていうので、みんなで頑張っていこうと。子どもとかが振り付けで踊ってもらえるように作りました。ミュージシャンは、コロナの歌に入っていきにくいでしょうから、僕くらいが手頃やろう」と笑い飛ばすが、“盟友”清志郎さんをほうふつとさせるようなメッセージ性のある楽曲に仕上がっている。

 「今、清志郎さんが生きていたら、なんかやると思いますね。戦うと思います。清志郎さんが2006年に大阪城ホールで『新ナニワ・サリバン・ショー』をやった時、最後に『雨あがりの夜空に』を歌っていて。途中の間奏のところで僕がサプライズゲストで出ていって『アメマ!』ってやったら、1万人がビックリしてね(笑)。その前には『探偵!ナイトスクープ』で、深夜に一緒に探偵としてやってもらったりして、ホンマにいろんな思い出があります」。

 たくさんの出会いを引き寄せ、夢中で駆け抜けてきた50周年プラス1。今改めて感じることがある。「偉そうぶって、やっている人でも、根はすっごい弱いんです。頼るんです。だから、どんなタレント・芸人もマネージャーいてへんかったら無理です。まさに『いくつになってもあまえんぼ』なんです(笑)。芸人って弱いんです。そんな中でも、強いのは、さんまちゃんとダウンタウンやね。マネージャーに『こうしたい』ってしっかり伝えるし、教えているからね。やから、さんまちゃんには、いまだに『しっかりしなはれ!』って怒られるんやけどね(笑)。自分のオカンより怒られてると思うわ(笑)」。あふれる才能と人徳で、間寛平はこれからも走り続ける。

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